聖書 あれこれ(2017.2.19)

まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。アモス書5章4節
昔「ウルトラマン」というテレビ番組(1966-1967)がありました。宇宙から来たヒーローで、地球に到着したときに、科学特捜隊のハヤタ・シン隊員と衝突して命を奪ってしまったので、その人の中に入り、一緒に地球の平和を守るということで、怪獣が現れると変身して登場、退治するというものでした。
さて、地球での活動が過酷で瀕死の状態になり帰ることになりました。抜け出れば地球人は死んでしまいますが、迎えに来た人が命を二つ持ってきたので、一つを地球人に与えることによって、目出度し目出度しという大団円でありました。
SFですから、荒唐無稽でよいのですが、命が外にあって、人に注がれるように与えるというのは、印象的なことでありました。
命は確かに一つしかありませんが、注がれるような形で命が与えられ、新たに生きるという経験は、実は教会に集う方の共通の経験ではないでしょうか。
洗礼を受ける経験がもたらすものは、命を得る経験だと言ってもいいと思います。
パウロは、元迫害者で、キリスト者を倒すことに全力を尽くしておりました。そのパウロを伝道者として選び立てたのは、イエス様でした。
この経験、イエス様の出会いをパウロは1コリント15章10節で「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。」と語っています。
「神の恵み」は注がれるもの、与えられるもの、無駄にならず、共に働くものだと語ります。
命が与えられ、そして新しいことが始まる、それが神の恵みの中身だというのです。
洗礼によって、私たちは死に、新しい命に生きるのです。「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書18章31節)。
私たちは、イエス様によって、命を得て、死んではいけない存在、恵みによって生きる存在となっているのです。img_4473-2

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