聖書 あれこれ(2017.2.12)

なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。                 ローマ書3章 28節
信仰。
「あなたの信じているものはなあに?」
神、イエス、聖霊からはじまって、人、物、様々でしょう。これから登山に行く人は、登山用具全般を信じている、というかもしれません。
神を信じると答えるとしても、次の質問が出てきたら嫌だなと思います。
「どこにいるの?」
信仰というのは、「キリスト教の信仰」というように、内容全般を言う場合もありますが、主な意味として用いているのは、委ねていることの中身ではないかと思います。仰ぐ対象というよりも、委ねられるお方です。
野球のキャッチボールは、球が行き交うことですが、その都度、球は相手のグローブの中に納まります。下手だと、球をそらしてあたふたと拾いに行くことになります。
球は、大袈裟にいえば、相手に受け入れられ、私もその球をしっかりと受け入れます。
委ねよう、受け入れられている、それが信仰の喜びです。
人が義とされる、自他ともに正しいとされるのは、律法を守ることによってではない。信仰による、そうなると、その中身について考えます。
「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」(1コリント15章3節)、それが中身です。
ここに私は委ねています。そしてこの聖書の箇所は、しっかりと「わたしたちの罪のため」と書くことによって、しっかりと私たちを受け入れていることを語っています。これこそが、私たちの「生活のよりどころとしている福音」(1コリント15章1節)、良い知らせです。
信仰とは、福音に身をゆだねていること、罪のために死んだイエスに委ねていること、それが信仰の中身です。img_2976

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