聖書あれこれ(2017.1.8)

わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。                  ヨハネの黙示録22章13節
黙示録、繰り返し似た表現、同じ表現が記されています。
1章8節「わたしはアルファであり、オメガである」、黙示録1章17節で「わたしは最初の者にして最後の者」、2章8節「最初の者にして、最後の者である」というのがあります。
旧約でも似た表現が多くあります。イザヤ書44章6節に「わたしは初めであり、終わりである」とあります。
「終わり」というと何が浮かぶでしょうか。目標を目指していたが、失敗した、挫折した、でしょうか。
もしそうだと、わたし(神)は、初めであり、挫折(失敗)の者であるとなってしまいます。
終わりは完成を意味します。主なる神は、すべてを完成させる方なのです。
主なる神の完成には、私たちがかかわっています。私の完成が含まれているのです。なにしろ、私を造ったお方ですから。造りっぱなしではないということです。
使徒言行録にはパウロが多く登場します。彼は、最初、キリスト教徒への迫害者として登場します。ステファノの殉教の場面で、彼に石を投げつける者たちの服の番をしていたのです。
その後、迫害者として頭角を現したのでした。それが彼の初めです。
キリスト者を迫害する、人を否定する、その終わりはどうあるべきなのでしょうか。
迫害される、否定される、その終わりはどうあるべきなのでしょうか。
逆転することでしょうか。確かにそれは見ていて晴れ晴れとすることですが、わが身に例えた時、少し不安になります。なぜなら、誰かを否定している場合が案外と多いからです。
完成は、仕舞うことです。どこに仕舞われるのでしょう。
私たちは、イエス様によって、ある場所に、仕舞い籠まれます。
「わたしの父の家には、住む所がたくさんある」(ヨハネ14章2節)。
大事に、仕舞い込まれます。ここにパウロとステファノ、私たちの終わり(完成)があるのです。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)なのですから、イエス様という道を歩き、真理を得、命を授かる、お仕舞といたしましょう。img_4303

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