聖書 あれこれ(2016.9.4)

主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
出エジプト記17章1節
19章でシナイ山着。ここまで、三月ほどの時間が経過しています。
17章は、シナイ山の近くということです。ここは「民の飲み水がなかった」のです。その前、食料や水が十分にあったかというと、あったのですが、それは自分たちの才覚で手に入れたものではなく、主なる神様の恵みとして与えられたものでした。
つまり、奇跡によるのです。マナ、ウズラ、水は、恵みとして与えられたものでした。
しかし、出エジプト記17章3節には「しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。『なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。』」とあります。
人間は、食いだめも飲みだめも出来ないのです。動物は出来るようです。ラクダは飲みだめも出来るようですが、あまり羨ましいとは思いません。
人間は、水も食料も毎日必要な量を摂取しなければならないのですが、恵みに関しては、どうなのでしょう。
恵みがあるということを、少しでも覚えていられるのでしょうか。3節を読むと、どうもそうではないようです。
この箇所を読む私たちは、大丈夫だよ、ちょっと待てば、と思います。ここで渇きで殺すはずだったら、もっと前に飢えで殺していたし、そもそもエジプトを脱出などないよ、頑なな民だなあ、と呆れてしまいます。
私たちは、大丈夫ですよね。脳の中の恵みと感謝の記憶の海馬は元気ですよね。
怪しいと思う方、この後を読んで下さい。きっと、安心します。
記憶が衰えても、頑なでも、主の守りは私たちのところへ届く、聖書の結論です。IMG_3515

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