聖書 あれこれ(2016.6.19)

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。       1コリント1章22-23節

15,6万年前にアフリカを出発した人類は、姿かたちも変化し、考え方も変わり、今から数千年前では、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」状態となりました。

さて、アジアの日本に住む者は、何を求めているのでしょうか。

茶柱が立てば、何か良いことが起こるのではないかと思い嬉しくなり、良い知恵が思いつけば・・・。

しかし、どちらも実行して行くだけの力があるだろうかと不安になるのも事実。

著名人の所有する聖書の書き込みの多さに驚嘆し、翻って我が身の聖書に挟まっているのは、クッキーの欠片か。

パウロが語る「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3章8節)の境地とは程遠いところで、「塵あくた」にもてあそばれている私の頭と身体。

「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7章24節)は、身体を意のままにコントロールできない者にとって、切実な問題でしょう。

内面の成長、心の時代と肉体の健全さがより求められる時代の中で、途方に暮れることの多いことか。

その私たちに伝えられているのは、十字架のキリスト。贖いのキリスト。贖われる対象は、この私で、いわば、外にいた者が贖われて、内に入ったことになります。

外に不安があり、内に平安があります。

平安をまとった状態だと、見える景色も変わってきます。扱いに困っている心と身体は、「主イエス・キリストを身にまと」(ローマ13章14節)うことで、100%よいものとみなされています。


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