聖書 あれこれ(2016.3.6)

再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」 マルコ福音書14章41-42節
祈りながら眠ることはよくあるのではないかと思います。
祈りは独り言ではなく、語り掛ける相手のあることなので、大袈裟に言うと、祈る人は関係の中に生きていることとなります。
その相手は、もちろん、イエス様、主なる神様です。
3月は卒業の時です。いくら学校に居続けたいと思っても、単位を取ってしまえば卒業という形でその関係は絶たれてしまいます。仕方がないことでしょう。
祈りながら寝てしまう。最後の「アーメン」がないので、いわば、文章としての「。」がないので祈りとして成立しない、あるいは「失礼の極み」で成立しないのでしょうか。
私たちはしてはならないという戒律の関係で生きているのではないのです。
戒律に生きる信仰ではなく、神と子の関係に生きています。眠る子を無理に起こす人はいないのと同じことです。
イエス様もゲッセマネで眠る弟子を叱りますが、置き去りにはしないのです。
祈りによって、神の存在を感じます。その感じ方は人それぞれですが、暖かい布団の温もりを感じれば、結果は一つしかないでしょう。
祈りと瞑想、睡眠はとても近いところにあるようです。
不安は不眠を呼びますが、祈りが睡眠を呼ぶと言うことは決して悪いことではないのです。  IMG_0549IMG_0561

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