聖書 あれこれ

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
コリントの信徒への手紙一13章12節
昔の鏡。
今のようにはっきりきれいに映らないのです。
おぼろにしか、見えないのです。
それになぞらえて、今は神をはっきりと見ることが出来ないけれど、やがては、はっきりと見ることが出来る、というのです。
それまで待ちましょう、ということです。
鏡。最近は、はっきりと、離れて遠くに立っても歪みません。
だから、はっきりと自分が見えてしまいます。
おぼろに自分を見るということがないのです。
そういえば、今はGPSで自分の位置ははっきり分かるし・・・
いろんなテストで成績の順位から性格の良し悪しというか・・・・
おぼろにしておきたいものまで向き合わなくてはなりません。
嫌な世の中です。
しかし、はっきり見えるものだけが自分ではありません。
「 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」(エフェソ書1章10節)。
未完成から完成へと向かうのです。
人が立っている場所、よい場所、悪い場所様々でしょう。
でも、そこに立ち尽くすのではなくて、完成への途上であるというのが、聖書が教えるところです。
成績の順位であろうと、性格であろうと、はっきりとそれが分かったとしても、
それでも、その先の完成に至る道があるということです。
そういうのを、おぼろげに見通せる、はずなんだけど。
目を凝らせば。
この前、ある暗めの展示室で向こうから同じ服を来た人とぶつかりそうになって・・・
右によけても左によけても・・・嫌な奴・・・と思ったら私、鏡でした。
前は、右によけて、1回で気づいたのに・・・右に左に、ショックだなあ。
そういう鏡の演出、止めて欲しいなあ。 IMG_6428

広告
カテゴリー: 聖書 あれこれ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中