聖書 あれこれ

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマ書8章28節
「召された者」=「神を愛する者」。
キャッチボール、小さい子を相手にするならだれでも対応可能。でも、中学生くらいで野球を部活などでし始めると、素人の大人では対応不可能となります。スピードが速いのです。
「御計画に従って召された」というと、何やらものすごい大計画のために、その実行者が選ばれる、と言う感じで、私など召されてない、対応できないと思ってしまいます。
でも、「召された者」=「神を愛する者」なのです。
召された者が、何かの基準があってそれをクリアした者だけとなると、苦しくなります。
そういえば、サウルもダビデも聖書には、眉目秀麗とあって、それが王の条件かと書かれていて、写真持って来いと突っ込みをいれたことがあるでしょう、あなた。
神を愛するのも主と告白するのも聖霊の働きです。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(1コリント12章3節)。
美しさは、一人では主張できませんが、愛することは、一人一人に注がれた聖霊によることですから、誰にもそれを否定することは出来ません。
「万事が益となる」は、希望であり到達点です。
私たちは、未来に向かって時を刻んでいます。そして、到達します。そこはどんなところでしょう。
「共に働く」とは、イエス様との協働です。イエス様は「万事が益となる」との約束と完成の姿を示しました。そこに私たちも参加します。
イエス様の目標が私たちの到達点となるということです。IMG_5698

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