聖書 あれこれ

モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、
アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」         出エジプト32章1-2節
モーセが戻ってこないので、人々はアロンに願って、「神のようなもの」を要求する。それがないと、生きられないということだ。
人はなんでも神にする。古今東西、変わらないことのようだ。
今はどうだろう。       「市場経済」。すべての事は市場がその価値を決定する。物の価格は勿論のこと、人の価値もだ。人は人であることで、他のいかなる物差しによっても計られることなく価値ある存在と言うのが、基本的人権だろう。しかし、最近よく聞くのは、その前に、どうにでも解釈可能な「公共の利益」の物差しを置くことだ。公共に害しそうな人権は、低価値になるというのだ。
安全保障も神になる。いつ攻め込まれるかわからないは、高い塀を作ることを要求する。そして、その塀を越えていくほどの武器も必要となる。あると安心という訳だ。
これらの神は、私たちを不安へと向かわせる。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)とイエス様は約束された。
イエス様は、不信仰を赦して下さる。
私たちは、不信仰を自分で裁き、イエス様は離れると決めつける。
イエス様は不信のトマスを信仰へと導く。
「トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った」(ヨハネ20章28節)のです。
赦し、平安へと導くイエス様を見上げよう。yokohama 2015a

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