聖書 あれこれ

あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
マタイ18章22節
寛容。辞書で引くと、「寛大で人をゆるし受け入れること。咎めたてしないこと」(広辞苑)とある。他に、罪科をきびしく責めない、差別待遇しないなどとある。
ある哲学者が「事実など存在しない。存在するのは解釈だけだ」と語った。なるほど、寛容は解釈によって用いられる。
ファリサイ派、律法を守ることにはうるさい。聖書ではお馴染だ。
安息日は移動することも制限されるが、同じ仲間のファリサイ派の人が多少制限をオーバーしたからと言って、直ちに律法違反だ、と訴えるとは言わないだろう。
事実は違反だが、違反と解釈されない限り違反ではない。よほどのことがない限り、仲間を簡単に違反とはしないだろう。
マタイ18章21節以下、「仲間を赦さない家来のたとえ」がある。天の国のたとえなのだが、王様は家来の借金1万タラントンを赦すのだ。「きっと全部お返しします」という言葉に信頼を置き、帳消しにしてやったのだ。
誰が見ても寛容の限度を超えていると考えるが、それを解釈し実行するのは、権威を持っている王様なのだ。
ローマ書3章24節に「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とある。
私たちは、この赦しの恩恵にあずかっている。
寛容の解釈者は、イエス様のみ。権威のない私たちが、イエス様の前に立って、誰かを解釈して非寛容を示すなら、きっとイエス様は困った顔をされ、そして微笑むかもしれない。
非寛容の者を受け入れる、それをイエス様はずっと教会でしてきたことで、これからもそのことは続くことになる。私たちは知っている。イエス様には権威がある。この方だけが寛容の解釈者だ。
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