聖書 あれこれ

お前はわたしを捨て、背いて行ったと、主は言われる。わたしは手を伸ばしてお前を滅ぼす。お前を憐れむことに疲れた。          エレミヤ書15章6節
疲労困憊。口語訳聖書ですと「飽きた」とあります。さすがに、憐れむ神は疲れを覚えたということです。
何故かというと、エレミヤは、バビロン捕囚の時期に活動した預言者ですが、北王国、南王国の滅びを経験します。捕囚期にいかに信仰者として生きるかを解いた預言者です。そのために、時に厳しいことを語るのです。しかし、なかなか浸透しないのです。
出エジプト記を読みますと、いかにイスラエルの民が頑なで、困った民であるかが分かります。でも、導きは手厚いです。
やっぱり脱出などするのではなかったという民のために、「東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた」(出エジプト14章21節)ので、容易に海を渡ることができたし、肉がたべたいと言えばウズラが、パンをためたいと言えばマナが与えられたのでした。しかし、立ち帰らない。預言者も疲れますが、主なる神も疲れるのです。では、疲れた神は、見放すのか。
エレミヤは先のことを考えています。それは、このままでは終わらないということです。
エレミヤ書23章7-8節に「それゆえ、見よ、このような日が来る。――主の御告げ。――その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とはもう言わないで、『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる」。
疲れて憐れむことを止めるのではない。まったく新しいことに希望を置くことを語ったのでした。
第1弾は、ペルシアによる解放、それでも頑なさは変わらない。
歴史は、頑なで、罪深い民には、救い主を遣わすことをもって解放することとしたのです。
「疲れた」は私たちの口癖でもありますが、良いことを産む言葉でもあるのです。
神の「疲れた」は、救い主誕生を産んでいるのですから。
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