聖書 あれこれ

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
ローマ書7章24節
文語訳で「噫(ああ)われ惱める人なるかな」。
15節から24節まで、パウロの告白調の箇所となっています。
自分は、いろいろと分かっているけれど、実行することができない。それで、上記の告白となるのです。あの有名な歌の一節「分かっちゃいるけどやめられねぇ」(『スーダラ節』作詞:青島幸男)となるのです。
文語訳ですと、悩むということです。
口語訳、新共同訳は、「なんと惨めな人間なのでしょう」となります。
これだと、落ち込みはするでしょうが、悩みません。罪相手に、白旗、降参です。
もっとも、悩んだとしても大丈夫です。
「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(詩50編15節、口語訳。新共同訳では「苦難の日」と訳出)。
パウロは、善を実行できないことを、キリスト者として、伝道者として、活動すればするほど、強く感じたのでした。それは、パウロとして、辛かったことと思うのです。人に善を勧め、説きながらですから。
しかし、罪を感じれば感じるほど、一人ではないことも深く覚えたのでした。
それがイエス様です。
「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(ローマ書8章1節)ということです。
罪を感じなくなることはないでしょう。しかし、定められることはない、ここに福音があります。
福音は、良い知らせです。罪の何たるかを語りますし、罪人であることを知らせますが、同時に、確かな救いを知らせるからこそ、良い知らせなのです。IMG_3257

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