聖書 あれこれ

わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。                  ヨハネの黙示録22章13節
「わたし」は、主なる神のことです。
出エジプト記では、モーセに語った言葉として、「わたしはある。わたしはあるという者だ」が伝えられています。
「終わり」は、完成を意味します。主なる神は、すべてを完成されるお方なのです。
では、私の完成とは何でしょう。
使徒言行録には、パウロが多く登場します。彼は、キリスト教徒への迫害者として登場しますが、最初は、ステファノの殉教の場面で、ステファノめがけて石を投げつける者たちの服の番をしていたのです。その後、迫害者として頭角を現したのでした。それが彼の初めと途中です。
終わりと言う言葉には、完成も目標も成就もあります。
終わりの言葉として、私たちは、「お仕舞にしよう」という場合もあります。
人を迫害する、人を否定する、その終わりはどうあるべきなのでしょうか。
迫害される、否定される、その終わりはどうあるべきなのでしょうか。
逆転することでしょうか。確かにそれは見ていて晴れ晴れとすることですが、わが身に例えた時、少し不安になります。なぜなら、誰かを否定している場合が案外と多いからです。
完成は、仕舞うことです。どこに仕舞われるのでしょう。
私たちは、イエス様によって、ある場所に、仕舞い籠まれます。
「わたしの父の家には、住む所がたくさんある」(ヨハネ14章2節)。大事に、仕舞い込まれます。ここにパウロとステファノ、私たちの終わり(完成)があるのです。IMG_2533 (2)

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