聖書 あれこれ

神の業がこの人に現れるためである。
ヨハネ福音書9章3節
イエス様は、「通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられ」(9章1節)、「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りにな」(6節)り、癒されました。
伝え聞いたファリサイ派の人は、安息日に行われたことなので、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(16節)と言う者も出、非難が起こります。現代なら、衛生面で問題を指摘する人も出るでしょう。
また、ファリサイ派の人は、いろいろとこの人を調べたり、問いただしたりするのです。そのために、呼び出しもするのですが、結局、「お前は罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と非難し、一方的に議論をやめています。失礼なことです。
「罪の中に生まれた」とファリサイ派の人は非難しますが、正しいのでしょうか。
聖書の中でのファリサイ派の人は、行動も主張も誇張されているように感じますが、形勢不利と思う時、数と力で押し切ろうという姿は、今日でも、どこかで見られる光景かもしれません。
「神の業がこの人に」。イエス様はこの者を癒され、このように語られました。
創世記1章26節に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」とあります。
もし、鳥に似せて造られたなら、最大の特徴である大空を飛ぶことができたでしょう。魚であれば、深く潜ることもできるでしょう。
私たちは、生まれながらの罪人ではないのです。神の栄光を、鳥のように、魚のように、表すことができるのです。
私たちは、神に似せて造られました。最大の特徴は、何でしょう。
鳥は飛び、魚は潜り、チーターは速く走り・・・。
連想ゲームです。
答えは、イエス様の言葉と、私たちを見る眼差しの中にあるのです。

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