聖書 あれこれ

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
ヨハネ福音書9章39節
裁くために。
主イエスはヨハネ福音書9章で「目の見えない人」に出会います。
イエスは、この者を癒されて、見えるようになさったのでありました。
見るという言葉には、「百聞は一見にしかず」ではありませんが、知るという意味をおのずと含む言葉です。
この人は、まさに、イエスを自分の救い主として知ることとなり、信じたのです。
裁くというと、何やら罪に定められてしまうということを考えてしまいますが、この人の立場に立って考えてみますと、裁きとは知ることでした。
救い主を知る事でした。
この人は、恐らく、これまで人の前で自分のことを語ることなど、なかったことでしょう。むしろ、人のことを気にしていたのでした。自分のことをどう思っているか、です。
人は、自分のことはさておき、人を罪人だと断じることが多いのです。この人の場合も人々から罪人と言われることが多いのです。だから、おのずと、人を避け、寡黙にもなります。
しかし、イエスに出会い、変わります。進んで自分のことを語ります。何度も語ります。そして、ファリサイ派の人に、諭すように教えたのです。
裁きの結果は「神の業がこの人に現れる」(9章3節)ことですが、9章13節以下のこの人の堂々とした振る舞いは、裁きの結果を表しています。
「イエスをメシアと公に言い表す」(9章22節)、それは自身の喜びを表すことでもありました。
喜びが、言葉として、振る舞いとして現れる、まさに「神の業がこの人に現れる」ことではないでしょうか。ミスジチョウ

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