聖書あれこれ

神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。                    ヨハネ福音書3章17節
有罪、無罪。裁きには、結果が伴います。
有罪なら相当な対価を払わなければなりません。刑事事件では、禁固、懲役、罰金など。無罪なら、何もすることはありません。
私たちはどういう立場にいるのでしょう。
黙示録20章12節から始まる段落の小見出しは「最後の裁き」とあります。
そうしますと、最後の前と言うことですが、では何をしましょう。
現実の世界では、裁判の判決が出るまでは、神妙にしていなければなりません。
1コリント6章2節に「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれる」とあります。
じっとしているのではないのです。私たちは、イエス様が来られた、今は「御子によって世が救われる」ために、イエス様の福音に参与することが示されています。それも裁きの業です。そこに参与するのです。
パウロは、そのために、世界へと送り出されていきました。参与です。
そういえば、パウロを送り出したのは、大勢でありました。使徒15章30節に「見送りを受けて出発し」とあります。
パウロたちを見送った大勢の人たちは、直接世界へと働きかけはしませんでしたが、でも、イエス様の救いの業に参与したのです。
救われるために、イエス様は、遣わされた者として、その歩みを全うされました。
私たちにもそれぞれの歩みがあります。パウロのように、またパウロを見送る者として、救われたものとして、一緒に救いの業に参与していきましょう。

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