聖書 あれこれ

体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。                        1コリント12章12-15節
一つであること。
ブレンドと言うのがあります。米であれば、幾つかの品種を混ぜて、味や品質、価格を調整する効果があるとされています。美味しくなるのでしょう。見た目にはわかりません。コーヒーも紅茶も同じでしょう。混ぜて合わせて一つなのです。
教会の一つとはどういうものでしょう。ユダヤ人、ギリシア人を混ぜてしまうことでしょうか。ユダヤ的思考、ギリシア的思考を混ぜることで新たな思考が生まれるかもしれませんが、新たなものを自分の思考として受け取ることでしょうか。
足は足、手は手、混ぜることは出来ません。どこまでも足は足、手は手です。
足に求められているのは、足は足、手は手の違いを認めることが望まれています。お互いに、違いを認めて、一つになるのです。
「体は一つ」とは、全く違うことを認めることなのです。それは殊の外、困難なことです。
何しろ、近い者同士でも争いがあります。「耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』」(16節)と言い合うからです。
これらを結び合わせている聖霊の力の強靭なこと。何しろ、教会であの人とこの人を結びつけているのですから…。
多様なものが結びつけられているのです。皆、多様、一様でないものが集まって一つになっていることをわきまえ、自分と同じでないことをしっかりと感謝しましょう。街並み2014a

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