聖書 あれこれ

他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。            ローマ書14章4節
召し使い。この時代、珍しい存在ではありません。
ある召し使いの振る舞いが気になるとしても、その召し使いがそのように振る舞っているのを、その召し使いの主人が認めているとするならば、とやかく言うことはできません。言えるとするならば、その召し使いの主人の主人の如き存在である場合だけです。
召し使いは、主人だけを見ています。あれこれ、他の人から何かを言われても気にしません。召し使いが倒れるかどうか、それは他者ではなく、主人にかかっています。
パウロは自分自身の事を「キリスト・イエスの僕」(ローマ1章1節)と呼んでいます。それはパウロだけがキリストの僕ということでなく、パウロから見てのあなたも「キリストの僕」ということです。皆がキリストの僕、誰かが誰かの僕なのではないのです。イエス様がこの僕をお認めになっているのですから、他の人があれこれと裁くのは必要のないことなのです。
僕が立つか倒れるか、それは主人であるイエス様によっているのです。イエス様はそのものを倒れないように支えます。
人の世界では、誰に付くかが今後の進路を左右することがあります。しかし、イエス様は、あなたを立たせ、用います。
イエス様の私たちへの贖いの愛は、そのようにと指し示しているのです。DSC_0307

 

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