聖書 あれこれ

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。 ガラテヤ書2章19-20節
神に対して生きるために。
私たちの願いはここにあります。
そのために、キリストのもとに集まってきました。ここで、罪による死をキリストと共に経験し、罪に死んだものとなりました。
死は終わりを表しています。この終わりは、命の終わりではありません。罪に支配されていることの終わりです。十字架の贖いです。
キリストは、私の内に生きておられます。このキリストは復活のキリスト、私たちは復活の新しい命に生きているのです。
罪の支配は終わり、新しい復活の命の支配の中にいるのです。
聖書では、新しい命は、種に例えられています。マタイ福音書13章31-32節で「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」とあります。
「からし種」は最も小さな種として知られていますが、それでも成長すれば、鳥が来て巣を作るほどの大きな木となるというのです。
私たち内にあるキリストの命も同じです。あなたの生きる場所で、あなたは「空の鳥」が巣を作るほどの安心を鳥に与えるのです。
あるいは、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(マタイ6章28節)の花の種として、傍らにいる者のための良い証しする者として生きることでしょう。
どれも神に対して生きることですし、私たちが願っていることでしょう。キバラガガンボ

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