聖書 あれこれ

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
2コリントの12章10節

受難。
初代教会、迫害下にありました。
使徒たちの信仰が「使徒信条」に言い表されていますが、そのなかに「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」とあるように、ローマ帝国の迫害を受けていたのでした。
加えて、ユダヤ教からも迫害を受けていました。
キリスト教は、ユダヤ教の延長線上に、救いの約束の成就の形で生まれたのですが、ユダヤ教も迫害をずっと受けていました。
歴史に登場するアッシリア、バビロン、ペルシア、ローマに至る各帝国の拡大と変遷は、ダビデ・ソロモンの時代のように自由に礼拝することが困難な時代でありました。
そうして考えると、キリスト教は、ユダヤ教の時代を含めると、相当長期にわたって迫害されていたことになります。
骨の髄まで迫害が身についていることになります。
キリスト教は、ローマ帝国において、313年にようやく公認されますが、紀元前586年のエルサレム神殿の破壊から考えますと、相当の期間、迫害を受けていたのです。
迫害は、存在の否定、外からの攻撃です。
受ける方からすると、存在の否定や軽んじられる、尊重されないことが長期に及ぶと、自身のなかで自己否定が生まれてきます。
しかし、キリストへの信仰は、迫害をうけても、否定を受けたとしても、そこに生きる力を見出したのでした。
否定から発展の道筋を見いだす、ここにキリスト共に歩む信仰者の強さがあります。
強さは、イエス様に担われている、そのことが強さを生むのです。
「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ書 46章3-4節)。CSC_0146

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