聖書 あれこれ

わたしは命じられたように預言した。わたしが預言していると、音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。
エゼキエル書37章7節
37章の小見出しは「枯れた骨の復活」とあります。
主なる神は、預言者エゼキエルをある谷に連れていったのです。そこには、非常に多くの骨があり、主なる神は、「これらの骨は生き返ることができるか」と問いかけます。そして、この骨に向かって預言することを告げるのです。「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」と。
語り終えたのちのことが標記の聖書へと続くのです。
エゼキエル書は、48章と長い書なのです。前半(1-32)は、裁きのことが告げられ、後半は希望が語られます。
裁きのことも、希望のことも幻を見るかのように語られるので、読みにくいのですが、標記の聖書箇所は、骨格標本を連想してしまいます。
イスラエルの歴史、北王国が滅び、今や頼みの南王国も滅び、バビロン捕囚となってしまいました。
国として、領土を失い、統治機能も崩壊し、人民も辛うじて繋がっていますが、その結び目も緩くほどけ始めています。
その中で、主なる神は、頑なな民に語り掛けます。希望を失うな、と。
人々をこの後、つなぎとめる役割を預言者が担います。やがて再び神殿で礼拝するときが来る、この希望が、領土も統治機能も失った民を支えます。
主なる神は、エゼキエルを「イスラエルの家の見張り」(3章16節)とされました。その役割は、語り掛けることでした。責める言葉もたくさんありますが、希望の言葉もたくさんあります。
耳をふさぐことなく、心を閉ざすことなく聞くことです。
エゼキエルは、希望を持っています。だから語り続けます。枯れた骨にも希望を持っています。主を信頼しているからです。この希望によって、人はやがて聞く者となります。希望を失ってはならない、持っているものは、語り続けよ、です。CSC_0025CSC_0058

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