聖書 あれこれ

愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
エフェソ5章15節
愚かさ。
予報で雪になるかもしれないとあったので、やはり長靴はあった方がいいと思い、買いに行ったらどこの店にもない。
その少し前、買おうかどうか迷ったときには、店には確かにあった。その後人々が一斉に行動したのです。乗り遅れた感じ、これこそが愚かさというのでしょう。
マタイ福音書7章24節に「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」とあります。
愚かさは知恵のなさですが、マタイの場合、家を建てるという知恵のあるなしではなく、聞いて行うかどうかの問題だと言うことです。
パウロは罪を知っており、それが赦されたことを知っていました。
回心前、パウロは迫害する側で、使徒言行録22章4節でこれまでの半生を振り返っていますが、「男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」とあり、21節ではステファノが迫害され殺されたときに「上着の番もしたのです」と関与を認めています。
主イエスの贖いによって赦されている、これがパウロの知恵であり、支えです。
赦されている、これが岩の上に自分の家を建てることにつながっているのです。
賢さは、何かを作ったり、創造したり、影響を与えたり、教えたり、と考えます。
しかし、聖書で言うところの賢さは、イエス様の贖いに預かるものであることを知ることにあります。
贖いを知る、そのことによって私たちの人生は、広がりもし、豊にもなるのです。

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