聖書 あれこれ

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キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。                         フィリピ2章6-8節
フィリピ2章4節で「他人のことも注意を払いなさい」と語り、何よりもキリストご自身がどれほど私たちのために注意を払っているかを語ったのが6節以下となります。
イエス・キリストは「人間の姿で現れ」たことは、やがては人間と同じに死に、神の国に帰られることですが、その死は「十字架の死」であるとあります。
十字架は、贖いの死、私たちの救いの死です。この死にこそ、私たちを救う命があります。
マタイ福音書28章20節には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とあります。十字架の死の先に神の国があります。世の出口は神の国の入り口です。
そこまで、あなたを一人にしないということです。
ここから先はあなた一人で、ということがないということです。
私たちは、イエス・キリストに注意を払われているのです。愛の注視です。
主イエスの十字架の死があるからこそ、私たちは出来ないことができるようになります。
「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2章10-11節)。

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