聖書 あれこれ

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。2コリントの信徒 5章19節
和解。
この場合、「キリストによって」「責任を問うことなく」ということです。
本来、責任が問われていたのです。
ルカ15章11節以下に「放蕩息子のたとえ」があります。
この場合、放蕩の限りを尽くすのが「人々の罪」となります。ローマ書7章19節に「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」とあります。ここに罪の現実があります。神様からいただいた恵みを浪費するばかりでなく、自分自身を消耗させているのです。
「キリストによって」。
この罪をあなたの罪として数えない、この罪の責任をキリストに負わせて、そうして責任が問われないこととなった。ここに和解があります。
誰にもここまでの歩みの歴史があります。それは語る言葉として持っています。
「和解の言葉」は喜びの言葉ですが、和解にあずかった、それはキリスト・イエスによって私たちが和解にあずかるために乗り出してくださったことでもあります。
誰があなたのために乗り出してくるか。それはあなたの価値を測る物差しとなります。
誰が乗り出したか。それは「私」について思いめぐらすときに必要な問いです。
ツマグロオオヨコバイ

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