聖書 あれこれ

キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。
ガラテヤの信徒への手紙1章6節
続く7節に「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく」とあります。
福音は一つです。
彼らが教会から離れてどこかへ行ってしまったのではありません。教会にいて、日々「ほかの福音」を宣べ伝えているのです。
何が問題なのでしょう。
私たちが「義」とされるのは、「ただイエス・キリストへの信仰によって」(2章16節)いることですが、これに「律法の実行」(3章10節)を追加して、それで完成としたいのです。
これまでずっと、律法を実行すること、善い行いを続けることが救いの条件のように考えていた人たちに、急な変更は難しいことであるかもしれません。
しかし、律法の実行を持ち出すことは、キリストの死を無意味なものとしてしまいます。断固、拒否しなければなりません。
善い行いは、達成感があります。これだけやった、ということです。
信仰や祈りには、やり遂げた、という達成感はないでしょう。なぜなら、やり遂げたのは、イエス・キリストただ一人だからです。私たちはその証人であり、あずかる者です。
信仰による義、救いは成果によらず、ただキリストのみ。
マタイ福音書 21章22節に「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とあります。
ここに福音があります。この福音は、イエス様が与えて下さったものです。これに、私たちが何かを追加してはならないのです。
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