聖書 あれこれ

エウティコという青年が、窓に腰を掛けていたが、パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった。                                使徒言行録20章9節
トロアス、パウロの伝道中のことでした。第3回伝道旅行の途中、この後、アジアの地中海沿岸を経て、エルサレムへと向かう予定です。船旅となります。
「話が長々」と「眠気を催し」とあります。
パウロは、元迫害者であり、またユダヤ教にもローマ・ギリシャの文化にも知識のある人物で、キリスト教が西へと向かって発展していくうえで、彼の果たした役割は決して小さくはない。
そのパウロの話が、「話が長々」と「眠気を催し」とはどういうことでしょう。
何を話したのか、それは記されていませんが、例えば、使徒17章には、アテネでのことが記されています。彼は「長々と」天地創造から話しだし死者(イエス)の復活まで話しました。死者の復活の話になると「ある者はあざ笑い」(17章32節)とありますから、少なくともそこまでは「眠気を催」すような退屈な話ではなかったということでしょうか。
アテネとアジアのトロアスでは、聞く方にいささかの理解力の差があったのでしょうか。もとより、大勢の前での話であるので、アテネのように議論好きの人たちとは、違うのかもしれません。
いろいろと不明な点が多いのですが、なぜ、このパウロの説教の中身よりも、貶めるような「話が長々」と「眠気を催し」た話が記されているのでしょう。
伝道するパウロ。それが強調されているのはわかりますが、他に方法もあったでしょう。
パウロは、何よりもイエス様を指し示すこと、そこに専念したと思うのです。洗礼者ヨハネが、イエス様を指し示したように。
1コリント9章20節に「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです」とあります。ここにも、自分のことよりもイエス様を指し示しています。
迫害という大きな罪を犯したパウロにとって、彼の責任の取り方は、変わった自分を現すことではなくて、キリスト・イエスを指し示すことでした。これが彼のモラルではなかったか、と思います
誰にもモラルがあります。そのモラルの源泉、パウロの源泉は、イエスの贖い、ただそこに尽きるのです。
私たちのモラルの源泉、行動の源泉も、きっとそこにあると思います。

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