聖書 あれこれ

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 マタイ福音書1章1節
神の子イエス・キリストの福音の初め。        マルコ福音書1章1節
わたしたちの間で実現した事柄について…       ルカ福音書1章1節
初めに言があった。言は神と共にあった。       ヨハネ福音書1章1節
福音書の初めの一行。福音は、良い知らせです。
マタイは系図から、マルコは、キリストの福音を受けるための準備として、預言者イザヤの書を掲示し、悔い改めを進めています。
ヨハネの役割は、人々の罪の悔い改めることにあります。
悔い改めがあり、罪の赦しがある、罪に対する勝利があるということです。
ヨハネは、悔い改める人の傍らにいて、イエス様を指し示すという役割を担います。
どんな時に、悔い改めるのでしょう。
悔い改めは、条件ではありません。
もし、条件であるとすると、「どうやって悔い改めるの?」とか「どれくらい悔い改めたらOKなのか?」という問いが起こるでしょう。
聖書に、悔い改める人、多く登場しますが、ルカ福音書15章11節に登場する「放蕩息子」は、こんな非常識で親不孝で、悔い改めない代表みたいな人です。
でも、放蕩の限りを尽くした果てに、しっかりと悔い改めています。
悔い改め。教えてもらってないのに、いざとなるとしっかりできるのが悔い改めです。数学や物理の法則はこうはいきません。習ってなければ、解けません。
悔い改めの時は、自分に絶望や失望の時です。
その時、あなたの傍らで、悔い改めを進めたヨハネが、ささやきます。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1章7-8節)。
絶望と失望の先に、イエス様がおられるのです。救い主としてです。
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