聖書 あれこれ

顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。                   Ⅰテサロニケ3章10節

パウロは、テサロニケの教会を再訪したいと願っていますが、今は簡単ではありません。それで、テモテを遣わしますが、パウロの思いは標記の言葉となります。「信仰に必要なもの」とは何でしょう。
私たちにとって、必要なものはなんでしょう。
フィリピ4章19節で「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と語っています。
モノよりも、祈りです。
あなたのために祈る祈りです。
愛する者に関心を寄せ、究極の心配が祈りとなって、言葉となって、顔が浮かんできて、パウロは相手を思うことで、胃が痛くなったかもしれません。でも、それは手が足を心配していることで、自然なことでした。
1コリント12章26-27節に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。
一つである、そのことがいつもあるのです。
離れていても、一つなのです。
キリストにあって一つである、それが相手を支えることでもあるし、また自分が支えられていることであると感謝しているのです。
互いに一つであると思い合う関係。
そこに、手、足、頭・・・「一つの部分」として、キリストにつながる部分としてあるのです。それが嬉しいのです。

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