聖書 あれこれ

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
1コリント12章27節
居場所。
地面に薄いシートを引き、仰向けに。ごつごつと背中に当たるものがありますが、しばらくごそごそと体を動かしていると、妙にはまるところ、安定するところが見つかる……らしい。
それが今夜の私の居場所。
いつの時代も、「私の居場所」を巡る議論があります。「ある」「ない」です。
家を筆頭にいくつ居場所を上げることが出来るでしょうか。同時に、居場所でないと声を上げる場所の筆頭に家を挙げることも出来るでしょう。
イエス・キリストの居場所。
フィリピ2章6-7節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」とあります。イエス様の居場所は、「私の横」ということになります。
居場所は、動かない場所ではありません。
「今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェソ5章8節)とあるように、イエス様に手を伸ばされ、握られている一体性。「光の子」としての一体性、歩ませてくださるという一体性。連れて行ってくださるという一体性。
人が作る場所、神殿はしばらくの間、一体性の象徴でした。
しかし、その神殿が崩壊した時、大事なのは、形ではなく、「宝の民」(申命記7章6節)と呼ばれていることの中にあることを知ります。
イエス・キリストの部分であるところに、私たちの居場所があるのです。

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