聖書 あれこれ

目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
コリントの信徒への手紙二 5章7節
信仰によって歩む。 どこまでか。
それぞれ、経由地があって、終末、神の国へ。
歩く以上、確信がなければなりません。そうでなければ、一歩たりとも前進できないからです。
歩く姿。ルカ福音書18章10節に「「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」とあります。
一人は、誇らしげに、もう一人は俯いて。
何によって、二人は歩いているのでしょう。
二人の人は罪のことを知っていました。ただ、一人は、克服可能だと考え、もう一人は、罪の大きさに打ちのめされていたのです。
イエス様はどんな働きをするのか。マタイ福音書1章21節に「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」とあります。
罪からの救い。これを信じて歩む。ここに私たちの歩みがあります。
私は罪に勝利した、となれば、勝利者のように、時には傲慢な歩み方となるかもしれません。
しかし、イエス様によって購われ、勝利者の列に加えられたとなりますと、ある謙虚さが生まれるのではないでしょうか。
誇らしげにでもなく、俯くのでもなく、第三の歩み方、それはエフェソ5章8節の「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」に通じます。
見ている人が嬉しくなる歩みの姿です。

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