聖書 あれこれ

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」                                            使徒言行録20章32節
主の言葉には、対話を引き起こす力があります。
この言葉によって、パウロ自身が造り上げられ、聖なる者とされたのです。その言葉の伝道者となって各地を巡ることは大きな喜びであったでしょう。
パウロは、主の言葉に捕えられた時、迫害する者から伝道する者へと大きな転換をしますが、そのとき、「 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」(ガラテヤ1章17節)とあります。
約三年と言われています。
ザカリア、バプテスマのヨハネの父もしばらく、言葉が離せなくなって、祈りの日々をすごしたことでしょう。
みな、主の言葉をうけ、応答して、それが祈りの言葉として記されていることです。
祈りの言葉は、美辞麗句ではありません。
聖書に「異言」のことが記されていて、「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません」(1コリント14章2節)とあります。異言に近い祈りを、人が聞いたら意味が分からないのは勿論ですが、暴言に近い叫びのようなものであればなおさらでしょう。
でも、それが人を作り上げていく祈りとなる、それが主の言葉です。

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