聖書 あれれ

顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。                                               
                              Ⅰテサロニケ310
 
パウロは、テサロニケの教会を再訪したいと願っていますが、今は簡単ではありません。
それで、テモテを遣わしますが、パウロの思いは標記の言葉となります。
「信仰に必要なもの」とは何でしょう。
私たちにとって、必要なものはなんでしょう。
フィリピ419節で「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、
キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と語っています。
モノよりも、祈りです。
あなたのために祈る祈りです。
愛する者に関心を寄せ、究極の心配が祈りとなって、言葉となって、顔が浮かんできて、
パウロは相手を思うことで、胃が痛くなったかもしれません。
でも、それは手が足を心配していることで、自然なことでした。
1コリント1226-27節に「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、
一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」とあります。
一つである、そのことがいつもあるのです。
離れていても、一つなのです。
キリストにあって一つである、それが相手を支えることでもあるし、
また自分が支えられていることであると感謝しているのです。
互いに一つであると思い合う関係。
そこに、手、足、頭・・・「一つの部分」として、キリストにつながる部分としてあるのです。
それが嬉しいのです。
広告
カテゴリー: 聖書 あれこれ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中