聖書 あれこれ

 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。
 この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。  
                                            コリントの信徒への手紙ニ4章7節
 
 教会には、いろいろな団体から、時期折々に、さまざまな「便り・報告」が送られてきます。
 それぞれに、それぞれの持ち場での働きが記され、感想や課題に取り組んでいく姿勢、教えられたことが記されています。
 教えられることが多いです。
 皆が人と人の間で働いています。
 ある団体の便りの結びの部分に、「みんな・・・本物を見抜く鋭い目を持っています」という言葉がありました。
 自分を戒める言葉として書いている、そこで働いて、磨かれていく経験をしているのでしょう。
 いい加減、適当に扱われたら、誰だっていい気持はしないでしょう。
 それはわかります。
 でも、そういう本物の人間に自分はなれるだろうか、私がそこにいたら、見抜かれてしまうだろう・・・。
  「お前は、偽物だ、そこをどきなさい」と言われたら、どうしましょうか。
 見破られたか、そう言う以外にありません。撤退です。
 しかし、人は「土の器」です。
 聖書は、そのように語ります。
 少なくとも、本物の人間になるようにとプレッシャーをかけないようです。
 そこに納めてあるものに価値があります。
 しかし、どこもかしこも、本物志向です。
 聖書を読む限り、私たちは「土の器」にすぎないのです。
 そうであるけれども、本物に。
 あちこちで言われているような気がします。
 プレッシャーだなあ。
 
 
 
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