行いによらず・・・

 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。
 これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。
 なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。    ガラテヤ書2章16節
 
 良いことをすると良いことがおこる。
 良いことをしないと・・・。
 以前、パウロは「律法の実行」に努めていました。
 キリスト者を迫害するということも、その一つでしょう。
 私たちは、ガラテヤ書でのパウロの言葉、「行いによっては、だれ一人義とされない」ということを聖書の中の事と考えます。
 パウロは、そこから解き放たれた。
 私たちはどうだろう。
 「律法」と呼ばれるものに、私たちは縛られたことはありません。
 聖書を読んではじめて出会ったようなものです。
 だからはじめて知ったのですから、そういうものに毒されたことはない・・・、しかし、そう言い切れる、でしょうか。
 行いによって、一喜し、また憂を感じてないでしょうか。
 何々をしないと、大変なことになる、といわれますとね。
 神様は喜ばれないといわれますと、心穏やかに過ごせるでしょうか。
 大丈夫でしょうか。
 今、心にある「悔い」の原因が過去の不作為にあるという場合、上記の聖書を味わって、心に留めていただきたいと思います。
  
 
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