聖書あれこれれ

 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、

 わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

                                             ガラテヤの信徒への手紙2章20節

 イエス様という人はどうゆうお方でしょう。

 ブラジルのリオデジャネイロの丘にある巨大なキリスト像は、両手を広げた像です。

 開かれた両手は拒絶の姿ではなく、私のもとに来なさいと、すべての人を抱きしめようと招く手です。

 赦しの姿、あなたを救うという強い意志の表れです。

 また、あなたを朝も昼も夜も、あなたが百回罪を犯せば、あなたのために百一回の救いを用意し待つお方です。

 そういう方が、私の近くにおられる、心強い限りです。

 イエスを主と信じる信仰生活は、この両手のなかで包まれて生きる生活のように思うのです。

 安心の生活、それを可能としてくださったのが、十字架上のイエスなのです。

 ルカによる福音書13章6―9節に「実のならないいちじくの木のたとえ」があります。

 園の主人が園丁に「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。

 だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と命じます。

 その時、園丁は「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。

 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と必死に願うのです。

 ここに私たちを生かすイエス・キリストがおられます。

 人のやることなど、しょせん中途半端なものです。評価を下せば胸を張れる人はいないのです。

 「なぜそこにいるのか」と言われたら返す言葉もありません。

 「場所をあけなさい」と言われたら、一人黙って去る以外ありません。

 しかし、十字架の上のイエス様は、私たちを必死でかばうお方です。

 園丁姿のイエス様は、実のならないいちじくの木を何とかしようとするお方です。

 私たちには、このイエス様の愛という命が注がれているのです。
 
 
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