聖書 あれれ

 

 聖書には、たくさんの例えがあります。

 使える例えの代表は、例えばこういうのはどうでしょう。

 宴会がらみで。

 ルカによる福音書148-10節に「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、

 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。

 そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる」。

 

 こういう例えは、宴会などで役に立ちます。また、謙遜を教える上でも通じるのではないでしょうか。

 しかし、次のはどうでしょう。

 1コリント12:16-17節 「耳が、『わたしは目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」とあります。

 

 こちらの方もよくわるのですが、例えそのものが当たり前すぎて、使う場面が想定できないのです。

 家族や仲間の一体を語るにしても多くの人が、耳と目の一体性を疑わないので、耳の主張が意外すぎて例えとして通じないのでは思うのです。

 では、何故、パウロはこういう例えを語るのでしょう。

 それほど、教会の一体性が疑われたのでしょうか。

 一つになるには、時間と互いを思い見る想像力が必要なのでしょう。

 「互いを思い見る想像力」は、天賦の能力ではありません。

 能力であったとしたら、教会は、一致性を持たなかったでしょう。

 しかし、希薄な関係から、一体性を持ち、各地へと世界へと福音を伝えていく力を得ることが出来ました。

 能力にあらず・・・それがいいのです。

 主に愛されているという思いが、そのように向かわせるのです。それが教会をかたどっていくのです。

 

 

 

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