聖書 あれこれ

 なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、
 空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。1コリント1121
 
 当時の教会の中。
 標記の前後の聖書の箇所を読みますと、食事をする機会が今以上に多かった印象があります。
 ところが、食べている人もいれば、食べていない人もいるし、酔っている人もいるしということです。
 さすがに、今日の教会で酔っている人を見かけるということはないでしょう。
 もっとも酔っているというのを、顔が赤い程度と考えると別かもしれませんが。 
 今日とは考えられない食事の事情です。
 今、教会の中で食事をするときに、空腹の者がいたら、分けるか、あるいは知られぬようにこっそりと食べるか、
 どちらにしても、気にしながら食べることでしょう。
 それがないというのですから、よほど教会の中の人たちの関係というのは、希薄であったということでしょうか。
 ペットのしつけの本に、たとえば犬を飼うとき、食事は人間が先、犬が後というのがしつけの基本とあります。
 つまり、人間が先にご飯を食べる、犬は空腹であっても、後ということです。
 それがなかなかできないのですね。一緒にしたり、犬が先になったり。
 空腹な犬を見ていられない・・・愛があるからでしょうね。
 パウロは、続けて、イエス様は私たちを愛して、イエス様がいかに食事に関して、
 弟子たちを、人々に対して配慮したかを語っています。
 そして、教会は、主の福音を伝える場所として、第一でなければならないことを語っています。そのためには、
 教会員同士の関係が、目的のためには希薄であってはならないというのです。
 祈りあう関係、それは分かち合う関係へと進んでいく、そこに今日の教会へつながる道筋があるのです。
 
 

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