関心という糧

  「関心という糧を」

 コリントの教会は、荒れています。

 荒れているのですから、早く教会の中で、必要なことをなすべきですが、それがなされていないのです。

 パウロは、「わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています」(1コリント5章3節)と語りました。

 パウロは、今、コリントから遠くはなれたところにいます。

 そこから手紙を書いているのですが、体は離れていますが、思いはコリントの教会の人々と一緒です。

 しかし、コリントの教会の人たちは、体は近くにあるのですが、心が離れていて、教会の中で秩序を乱している人たちに対して、関心がないのか、何もしないのです。

 「裁く」というのは、切り捨てるということではありません。

 コリントの教会の中で、問題を引き起こしている人に対して、関心を寄せているということです。

 パウロの祈りの対象です。立ち返る機会を与えているといっていいのです。

 ところが、コリントの教会の人たちは、動かないのです。無関心なのです。それが気になるのです。

 多くのことに関心を寄せるということは出来ないことです。

 コリントの教会は、パウロがその誕生に直接的に関与したことで、どうしてもその動向というか、成長の履歴が気になるのです。

 ちょうど家族のようにです。だから、離れていても「体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のよう」な思いなのです。

 全てのことに関心を注ぐことは出来ませんが、パウロの思いは理解できるのではないでしょうか。

 長く、継続的に関心を寄せることは、ことのほか難しいのです。

 趣味とか仕事とか、人間でないものについては、人は継続的に興味も関心も寄せるのだけれども。

 人が相手だと難しい。

 夫婦でも難しい。子から親も難しい。

 強いていえば、親から子。

 これも難しいとなる現代は、余程にこの問題に意識的でないと、幼い子は大変かもしれません。

 キリンも馬も鹿も生まれてすぐに立ち上がりますが、人はそうは行きません。

 子は、ある時期までは「関心という糧」で生きるようなものなのです。

    

広告
カテゴリー: 聖書 あれこれ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中