洗礼式

 
 キリスト者、クリスチャン、教会員。
 イエス様を、救い主と信じている人の呼称は、いろいろとあります。
 しかし、共通なのは、皆、洗礼を受けているということです。
 洗礼という言葉は、「野球」のようにどなたが翻訳したのかは知りませんが、元はギリシア語で、ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていて、
 イエス様自身もヨハネから洗礼を受けています。
 マタイ3章13節に「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである」とあります。
 川で行う、水の中へ。これが最初の形のようです。
 その後、復活のイエスが「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(新約・マタイ28章19-20節)と命じたので、今日に至るまで、教会では行っています。
 おそらく、今後も、終末まで。
 洗礼の方法は、最初は、しっかりと水の中に入る方法でしたが、頭に少しばかりの水を垂らす、つける方法が取られるようになりました。滴礼です。
 勿論、今日でも、寒くても川で洗礼式を行う教会もありますし、礼拝堂の中に、洗礼槽を備えている教会もありますが、その場合はお湯であるようです。
 久里浜教会は、滴礼です。教会の中に洗礼槽はありません。
 近くに、平作川がありますが、護岸工事がなされ、岸辺というものがなく、また水深が深すぎてとても出来ません。
 もっとも、岸辺があったとしても、やりません。
 何で、聖書の通りやらないんだ、と言われても、困ります。
 川で、洗礼志願者が複数、しかもまだ寒い。そうなると受ける方も授ける方も命がけです。
 しかし、命が危うくなったという話は聞かないので、人間の集中力と言うのは、驚異的です。
 洗礼は、新約・ローマ書6章4節に 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」とあるように、
 洗礼は、罪に死に、新しい命に生きるということを意味します。
 この新しい命は、誰も脅かすことが出来ない、それを持つことになるということです。それが、生きる勇気、死にゆく覚悟となります。
 車はガソリンがないと動きません。
 では、人間は。
 あなたの原動力は、何? 
 滝
 ところで、幼児の洗礼ですが、親の信仰によって、授ける教会があります。
 なかなか、赤ちゃんの意思を確認することは出来ないので。
 自覚的に、信仰の意志を告白・表明することを持って洗礼を授けるということに重きを置く教派では幼児洗礼は行いません。
 日本基督教団では、どうか。
 ここは教派の合同によって成立したので、教会の伝統によって、行う教会と行わない教会があります。
 だから、親がうちの子に幼児洗礼を授けてくださいと願っても、教会によっては出来ませんという答えが返ってきます。
 ところが、日本基督教団の規則には、幼児洗礼に関する規定があるので、あるのに授けないのはおかしい、といわれたらどうしましょう。
 他の教会に行ってくださいというしかありませんが、都会なら近くに教会はいくらでもありますが、地方ではどうでしょう。
 教派の合同による日本基督教団は、そういう難しさ、複雑さを抱えているということは言えます。
 
 
 
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