今週の聖書

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、

神の恵みにより無償で義とされるのです。   ローマ書3章23-24

上記の聖書の個所は、人はどういう状態にいるかは語られていますが、そこからの脱出に関しては、人が関与することはないということを示しています。

人は皆、罪人。

他人を見てそう思う場合もあります。ニュースなどで伝えられる事件などを見聞きすると、確かに人は罪人です。顔写真を見ると、確かに悪人面をしているように見えてしまいます。

では、自分を見て、人は皆罪人と思う時があるのでしょうか。出来ればそう思うという時は、自分について相当自信を失っている時でしょうから、出来ればそういうようなことを思わずに一生を送りたいものです。

でも、罪を意識するのは、常に過去のことで罪を意識するので、「後悔先に立たず」とはよく言ったものです。

もし、罪を意識してしまった場合。どうしましょう。

他人の罪を知って、その人を嫌いになることは良くありますが、自分の犯した罪を知っても、まさか自分を嫌いになるわけにはいきません。何の得にもなりません。

さて、どうしましょう。

振り返ると自分の罪の姿が見えます。醜いです。しかし、その向こうに、十字架が高く立っています。

その十字架の意味はこうです。あなたは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされている」ということです。

あなたは確かに罪人です。しかし、あなたには、その罪を「無償で義」とする恵みに包まれています。主なる神の視線は、その包まれている者に注がれるのであって、その包みをはがすことはない、と言われます。

祝儀袋はピンからキリまでありますが、どれを用いるかは中身の額と比例関係にあると言われます。私たちは、反比例、物凄いものに包まれているのが私であることを覚えましょう。それが標記の聖書個所です。

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