今週の聖書

今週の聖書
 

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」ガラテヤ51

 自由の身。私たちは自由です。

 自由を希求する時、それは束縛を感じる時です。

 ユダヤの民は、エジプト脱出前夜、自由を求めていました。何しろ、何でもエジプトのために行動すること、そのことが強制されていたのです。一日24時間365日、それが求められていました。出エジプトは、そこからの解放でありました。

 脱出後、あることに気づきました。嬉しいので導き出してくださったことを感謝しようと思ったのですが、長続きしません。

 十戒をいただいたのですが、それを守ることが出来ないのです。何故だろうと思い巡らして、それが私たちの中にある何かによる、と思い至りました。それを罪と名づけました。

 罪の奴隷です。

 罪は厄介で、善を行うことを邪魔します。それだけではありません。善い事をしていますと、こうしたらいい、ああしたらいい、こうすべきだとか、自分や相手を煽り立てて、窮地に人を導きます。

 イエス様は、この状態をご覧になって、私たちに一つの方法を提示しました。

 それは、自分の評価について、自分で採点をするのをやめることです。採点するのをやめると、少し自由ということが分かってきます。

 マルコ福音書834節に「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」と語りかけました。従うこと、イエス様の後をついていくこと、そこに道が開けます。

 「自分を捨て」「自分の十字架」というと、たいへんだなと思うでしょう。でもこれは、例えば、「自分を捨て」とは、十戒を守るぞ、守らないと駄目だぞ、というようなこだわりを棄てることです。「自分の十字架」とは、例えば、聖書に「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ書719節)とありますが、それを不幸に思うのではなくて、そういう自分を大事にするということ、それが「自分の十字架を背負う」ということです。イエス様に従うことで、自由への道と意味があきらかになります。

       DSCN0579

 

 

 

広告
カテゴリー: 聖書 あれこれ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中