2018年 久里浜教会 オープンチャーチ

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礼拝 2018年4月29日 午前10時30分ー11時40分

前  奏・・・「目覚めよと呼ばわる声す」(J.GWalther)
招  詞・・・93-1-46
讃美歌・・・59「この地を造られた」
交読詩編・・・詩35編22-28節
信仰告白・・・93-4-1-B「使徒信条」(裏面参照)
讃美歌・・・394「信仰うけつぎ」
聖  書・・・フィリピの信徒への手紙4章10-14節
祈  祷
讃美歌・・・461「みめぐみゆたけき」
説  教・・・「どんな時にも」
役員任職式
CS教師任職式
讃美歌・・・493「いつくしみ深い」
献  金
感  謝
主の祈り・・・93-5-B(裏面参照)
頌  栄・・・27「父・子・聖霊の」
祝  祷
後  奏
報  告 (CS礼拝は午前9時15分 中継は→礼拝

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聖書 あれこれ(2018.4.29)

神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。        ヨハネの黙示録14章7節
詩95編7節に「主に養われる群れ、御手の内にある羊」とあります。私たちは、主に養われる羊の群れです。その羊は、主の御手のなかにあります。
御手の中にある、そのことを視覚的に「天と地、海の水の源を」見る時に感じることができます。御手の中とは、迷子の羊飼いを探す羊飼いの中にあるということでもあります。
私たちは、自分は何処にいるのだろうかと考え込むことがあります。
その時に思い起こしましょう。私たちはあなたの創造した世界の中にいる、と。
教会は、キリストの体、ここでならより鮮明にあなたの御手の中にいることを確かに知ることができます。世界の中、御手の中です。迷子の状態から探し出されての御手の中です。
黙示録14章6節に「天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて」来るとあります。
教会の中で福音を聞くことは、主なる神の御意志、約束を聞くことでもあります。
私たちへの約束、イエス・キリストによる救いの計画が細かく記されています。それが私たちの聞く福音です。
礼拝する者へ。
オリンピックなどで勝者は表彰台で栄誉を受けます。教会も同じで、教会という場所で、私たちは礼拝します。礼拝は主を褒め称えることですが、同時に表彰賞台に立つような大きな喜びも味わうことでもあるのです。

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2018年4月22日 礼拝:午前10時30分-11時30分

前  奏・・・「ガリラヤの風かおる丘で」(蒔田尚昊)
招  詞・・・93-1-45
讃美歌・・・57「ガリラヤの風かおる丘で」
交読詩編・・・詩35編1-10節
信仰告白・・・93-4-1-B「使徒信条」(裏面参照)
讃美歌・・・346「来たれ聖霊よ」
聖  書・・・フィリピの信徒への手紙4章1-9節
祈  祷
讃美歌・・・479「喜びは 主のうちに」
説  教・・・「平和はあなたと共にある」
讃美歌・・・520「真実に 清く生きたい」
献  金
感  謝
主の祈り・・・93-5-B(裏面参照)
頌  栄・・・26「グロリア、グロリア」
祝  祷
後  奏
報  告 (CS礼拝は午前9時15分 中継は→礼拝

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聖書 あれこれ(2018.4.22)

主はわたしたちを 罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。
天が地を超えて高いように 慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。
詩103編10-11節
詩103編は喜びがあふれています。
詩103編4節に「命を墓から贖い出してくださる」とあります。
命は、私の命、私そのものです。
命のおさまるべき場所はどこでしょう。朽ちる墓ではないことは確かなことです。
「土の器」(2コリント4章7節)という言葉がありますが、人の弱さや罪深さ、脆さを土の器に例えたのですが、この「土の器」の人が、標記の言葉によって、「慈しみと憐れみ」(詩103編4節)を受けるのです。
ちょっと、この身が恥ずかしいくらいな感じで、主は私たちを呼ばれます。
「力ある勇士たちよ」(詩103編20節)。
私たちは勇士なのです。
詩103編の最後は、「主をたたえよ」で終わるのですが、きっと、勇士の微笑みを浮かべていることでしょう。
この微笑みは私たちの微笑みです。
主なる神も憐れみと慈しみの微笑みをもって私たちを見ていることでしょう。
主なる神は、勇士に微笑むのです。
それこそが私たち勇士に授けられる「慈しみと憐れみの冠」(4節)です。

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2018年4月15日 礼拝:午前10時30分-11時30分)

前  奏・・・「イエスよ、わたしは主の名を呼ぶ」(J.S.バッハ)
招  詞・・・93-1-44
讃美歌・・・20「主に向かってよろこびうたおう」
交読詩編・・・詩34編12-23節
信仰告白・・・93-4-1-B「使徒信条」(裏面参照)
讃美歌・・・166「主は,わたしを究め」
聖  書・・・フィリピの信徒への手紙3章12-21節
祈  祷
讃美歌・・・521「とらえたまえ、われらを」
説  教・・・「主イエスを思う」
讃美歌・・・528「あなたの道を 主にまかせて」
献  金
感  謝
主の祈り・・・93-5-A(裏面参照)
頌  栄・・・24「たたえよ、主の民」
祝  祷
後  奏
報  告 (CS礼拝はありません。合同です。中継→礼拝

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聖書 あれこれ(2018.4.15)

ついに心の中を一切打ち明けた。「わたしは母の胎内にいたときからナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並の人間のようになってしまう。」デリラは、彼が心の中を一切打ち明けたことを見て取り、ペリシテ人の領主たちに使いをやり、「上って来てください。今度こそ、彼は心の中を一切打ち明けました」と言わせた。ペリシテ人の領主たちは銀を携えて彼女のところに来た。
士師記16章17-18節
サムソン、自分の力の源泉を話してしまいました。
そういえば、14章でなぞなぞの答えをめぐる騒動で、つい答えを話してしまいました。この16章でもデリラに乞われると、話してしまいました。
サムソン、力は強いのです。このあと、力を失いますが、髪の毛ですから、また生えてくるのです。それで、最後の力をもって「サムソンは、『わたしの命はペリシテ人と共に絶えればよい』と言って、力を込めて押した。建物は領主たちだけでなく、そこにいたすべての民の上に崩れ落ちた。彼がその死をもって殺した者は、生きている間に殺した者より多かった。」(30節)のです。
サムソンは、力はありましたが、弱さを抱えている人でした。きっと、何度も悔いたことでしょう。
何度も悔いる、それが現実の人間の姿です。一度で済まないのです。
人は、失敗から多くの教訓を学びますが、それを生かすことにおいて、下手なのです。
しかし、このサムソンをめぐる物語は、私たちを強く励まします。
最後の力をもって祈る祈りに、主なる神様は応えてくれるのです。
神様との関係は、最後の罪ある所で回復する。それが私たちに与えられる憐れみです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2章17節)。

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