2017年3月19日 礼拝:午前10時30分ー11時30分

前  奏・・・「汚れなき神のこひつじ」(J.パッヘルベル)
招  詞・・・93-1-32
消  火
讃美歌・・・16「われらの主こそは」
交読詩編・・・詩147編8-11節
信仰告白・・・93-4-1-B「使徒信条」(裏面参照)
讃美歌・・・303「丘の上の主の十字架」
聖  書・・・ルカによる福音書22章31-34節
祈  祷
讃美歌・・・528「あなたの道を」
説  教・・・「ペトロの離反」
讃美歌・・・521「とらえたまえ、われらを」
献  金
感  謝
主の祈り・・・93-5-A(裏面参照)
頌  栄・・・312(5節)「栄光はみ子に」
祝  祷
後  奏
報  告  (CS礼拝はありません。合同です。中継は下記から

http://www.ustream.tv/channel/qBu6eqTrVFr

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聖書 あれこれ(2017.3.19)

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、・・・。
創世記1章2節
「混沌であって、闇」。
どんな状態なのでしょうか、想像がつくでしょうか。
昔、身近なところに闇がありました。
最も身近なところではトイレ。夜のトイレは薄暗かったです。周りは闇でありました。トイレの中心は深淵・・・。
しかし、最近は、どこも明るいですね。
闇には、得体のしれないものが住む世界ということになっています。吸血鬼は朝が嫌いです。コウモリが嫌われるのは、夜行性の動物であることに加えて、暗い洞窟を住みかとするからでしょうか。
闇に引き込まれないように、そこに住むようにならないように、と教えられてきましたが、今はその暗闇が私たちの周りから消えているようです。
加えて、昨今のマンガ世界では、闇の力を持つ方と知り合いになって、正義を行うヒーローが登場しました。悪魔くん、鬼太郎、地獄先生、妖怪ウオッチとか。このおかげでますます闇が闇らしくなくなってきました。
しかし、闇が明るくなったとしても、依然として恐れを感じるものがあるのも事実です。
罪について、私たちは依然として強い恐れを抱いているものの一つです。
隣人に対する罪、隣人(自分も、人、貧困、平和、環境、動物)と共に支え合い配慮することへの積極的、あるいは消極的な拒否は、私たちを創造し、導く神との関係を損ない、私たちの存在の意味を失わせる力として強くあるのではないでしょうか。
ここからの救いこそ、イエス様の力です。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ローマ書1章16節)。
私が恐れるものを破壊する力、それこそが「神の力」です。この力は、罪ある人を罰する力ではなく、救う力です。ここに私たちの救いがあります。

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2017年3月12日 礼拝:午前10時30分-11時30分

前  奏・・・「ああ主よ、あわれな罪人我を」(J.S.バッハ)
招  詞・・・93-1-31
消  火
讃美歌・・・19「み栄告げる歌は」
交読詩編・・・詩147編1-7節
信仰告白・・・93-4-1-B「使徒信条」(裏面参照)
讃美歌・・・306「あなたもそこにいたのか」
聖  書・・・ルカによる福音書22章24-30節
祈  祷
讃美歌・・・521「とらえたまえ、われらを」
説  教・・・「いちばんは誰か」
讃美歌・・・530「主よ、こころみ」
献  金
感  謝
主の祈り・・・93-5-B(裏面参照)
頌  栄・・・312(5節)「栄光はみ子に」
祝  祷
後  奏
報  告 (CS礼拝が午前9時15分 中継は下記から)

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聖書 あれこれ(2017.3.12)

女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
ヨハネ福音書8章11節
イエス様の前に、罪ある女性が連れてこられました。5節に「現場で」とあるので、現行犯であるのでしょう。
緊迫した場面です。律法に従えば、石打の刑になるというものです。申命記22章22節、レビ記20章10節によれば、男女ともにということですが、ここでは何故か女性だけが対象となっています。男は逃げたのでしょうか?
どう考えるかと問われて、イエス様は答えられます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と語ります。
すると、年長者から順に立ち去っていき、誰もいなくなりました。
そこで、最後にイエス様がこの女性に向かって、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語られたとのことです。
なぜ、処罰しようという人は立ち去ったのでしょう。
自分も罪人、人を裁く資格などないと思ったのでしょうか。
これは大勢の人の前のことであったかもしれません。
そうしますと、立ち去っていく人にとっては、恥ずかしいことでもあります。
結果的に自分は罪人であることを言い表すことになるからです。
罪を告白するより、それを隠して石を投げることの方がいいと思っても不思議ではないのです。
イエス様の憐みのまなざしは、この罪ある女性にも、本来いなければならない男にも、去って行った人にも、等しく注がれています。
「わたしもあなたを罪に定めない」。
当時の社会は、今の視点から考えると、私生活が監視されていたのでしょう。罪を犯したら、心を寄せるところ、身を寄せるところがなかったのかもしれません。
2000年たった今、様々な進化を得ていますが、私たちの社会は、社会の中に、弱い人や罪を犯してしまった人を支え再出発を願う場所を持っているのでしょうか。
イエス様は人々を単に去らせたのではないのです。私のところこそ、あなたがたが心を寄せ、身を置くところだと語り掛けたのです。
教会は、詩23編が語るところの「憩いの水のほとり」であり「魂を生き返らせてくださる」ところなのです。

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葬儀のご案内

T姉の葬儀は、3月11日(土)午後12時30分より行われます。

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2017年3月5日 礼拝:午前10時30分-11時30分

前  奏・・・「茨の冠かぶせられ」(山元富雄)
招  詞・・・93-1-30
消  火
讃美歌・・・76「今こそ歌いて」
交読詩編・・・詩146編3-10節
信仰告白・・・93-4-2「ニケア信条」(裏面参照)
讃美歌・・・304「茨の冠を 主にかぶせて」
聖  書・・・ルカによる福音書22章14-23節
祈  祷
讃美歌・・・315「茨の冠 かぶせられ」
説  教・・・「主の晩餐」
讃美歌・・・409「すくいの道を」
聖餐式
讃美歌・・・81「主の食卓を囲み」
献  金
感  謝
主の祈り・・・93-5-B(裏面参照)
頌  栄・・・312(5節)「栄光はみ子に」
祝  祷
後  奏
報  告(CS礼拝はありません。合同です。中継は下記から)IMG_0588

http://www.ustream.tv/channel/qBu6eqTrVFr

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聖書 あれこれ(2017.3.5)

神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。        ヨハネの黙示録14章7節
詩95編7節に「主に養われる群れ、御手の内にある羊」とあります。私たちは、主に養われる羊です。その羊は、主の御手のなかにあります。
御手の中にある、そのことを視覚的に「天と地、海の水の源を」見る時に感じることができます。
世界の中にいるとは、主なる神の創造の世界の中にいるということです。
「どこにいるのか」、自問することがあります。
答えましょう、私たちはあなたの創造した世界の中にいる、と。
教会は、キリストの体、ここでならより鮮明にあなたの御手の中にいることを確かに知ることができます。世界の中、御手の中です。
黙示録14章6節に「天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて」来るとあります。
教会の中で福音を聞くことは、主なる神の御意志、約束を聞くことでもあります。
私たちへの約束、イエス・キリストによる贖いの救いの計画が細かく記されています。それが私たちの聞く福音です。
礼拝する者へ。
オリンピックなどで勝者は表彰台で栄誉を受けます。教会も同じで、教会という場所で、私たちは礼拝します。礼拝は主を褒め称えることですが、同時に表彰賞台に立つような大きな喜びも味わうこともできるのです。さあ、教会へ。IMG_2180 (2)

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